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10代目金原亭 馬生(きんげんてい ばしょう、1928年〈昭和3年〉1月5日 - 1982年〈昭和57年〉9月13日)は、東京市和田堀町方南(現・杉並区方南)出身〔出生年月日は戸籍上の表記だが出生後の届け出が遅れた可能性があり、かつこの頃転居を繰り返していたため家族の記憶もややあやふやで、資料によっては出生地を当該年月日前まで5代目志ん生一家が居住していた豊多摩郡代々幡町大字笹塚(現・渋谷区笹塚)としているものもある。〕〔美濃部美津子『三人噺 志ん生・馬生・志ん朝』15頁。母親が生後3か月の馬生をおぶって家族で方南の家から歩いて夜逃げした旨の記述がある。〕の落語家。本名は美濃部 清(みのべ きよし)。 父は5代目古今亭志ん生、弟は3代目古今亭志ん朝。長女は女優池波志乃で、志乃の夫である中尾彬は義理の息子にあたる。次女は株式会社落語普及会の代表を務める、その実子に20世紀少年にて幼少期のヤン坊・マー坊役を演じた俳優の山田清貴。清貴は落語家として自身の名を継いだ11代目馬生に弟子入りし金原亭小駒の名を貰う(2014年現在の階級は前座見習い)、師弟関係も孫弟子(但し11代目馬生は直弟子から筆頭弟子伯楽門下に移籍しているため、2014年現在の正式な関係は曾孫弟子)にあたる。生前は落語協会所属。出囃子は『鞍馬』だが、晩年は父の出囃子『一丁入り』に変えた。 == 来歴・人物 == 豊山第二中学校(旧制私立豊山中学校定時制)を中退した後、当時の中学生の憧れの一つであった予科練を志していたが、体調が悪化したことにより断念。腸の病気の発見がやや遅れ、駒込の病院で大手術をした。 退院すると死生観の変化により予科練志願の心は消え、落語家になろうと思い立つ。1942年8月、父・5代目古今亭志ん生に入門し、4代目むかし家今松を名乗る。当時は落語家が足りなかったため、二つ目として落語家人生をスタートさせた。1944年頃、初代古今亭志ん朝と改名。1945年4月、終戦直前になって父・志ん生が満州慰問に出てしまったため、苦労を重ねる。 1947年1月、志ん生が帰国。同年には再び今松を名乗る。1948年に真打昇進し、古今亭志ん橋を襲名。1949年10月、10代目金原亭馬生を襲名。 志ん生からは少しも噺の稽古をつけてもらえなかった。そのため、他の師匠から稽古を受けたり、独流で噺を練り上げたりすることで独自の芸風を磨き続け、三遊派・柳派両派のネタを多く持った。また、人情噺などのじっくり聴かせる噺に本領を発揮し、独自の芸風を確立した〔『NHK 落語名人選:10代目金原亭馬生』 解説資料〕。 1969年、芸術選奨新人賞を受賞。1973年には文化庁芸術祭優秀賞を受賞する。1978年から1982年まで、5代目柳家小さん会長の下で落語協会副会長を務めた。 1982年9月13日、食道癌のため、54歳で死去。 書画は本職並みで、酒仙でもあった。また、私生活では噺家らしく和服を貫いていた。志ん生の長男である馬生が「志ん生」の名跡を継ぐのが筋であったが、弟・3代目志ん朝に継がせたい父の意を汲み、生前には「『志ん生』は志ん朝に継がせるよ」と約束していたという〔5代目志ん生談〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金原亭馬生 (10代目)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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